たびっと倶楽部の旅ふれあいマガジン
22号H14.10.26発刊
 
 フランスの田舎を旅する
サント・マリー・ド・ラ・メール
サント・マリー・ド・ラ・メールの巡り方
 安い食材を高く買った話
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佳作 地球の裏側にいる友人たち―メキシコ子連れ旅行顛末記―



 

ヨーロッパの街並が残るサカテカスで。記念写真用の昔の衣装、銃、つけ毛をつけて

 

「それで、なんでメキシコなの?」
 夏休みに3人の子どもを連れてメキシコのタマウリパス州にでかけたい、と夫の両親に相談したとき、私は尋ねられた。学校の休みを利用して海外にでかけるのはいいことだ、いろんなことを体験できる、しかしそれがどうしてメキシコなのだ、と両親は不思議がるのだった。さまざまな国と貿易し、海外旅行の経験も数え切れないほどある自分たちも、友人も親戚もメキシコなど行ったことがない、どうしてわざわざそんな遠くまで行くのか、たとえばオーストラリアやニュージーランドなら治安もいいし、日本人もたくさん行くから安心だ、あるいは同じ田舎といっても、ヨーロッパの田舎とかだと、歴史も文化も学ぶものが多いだろうというのだった。私はと言えば、別にメキシコという国そのものに強い興味があったわけではなく、ただメキシコ人の友人家族に会いに行きたいというのが大きな理由だった。

 2年前の夏、友人家族とカナダ・ブリティッシュ・コロンビア州のビクトリア大学の寮に1ヶ月滞在した。そのときにとても素敵なメキシコ人の家族に出会った。お父さんのハイメはメキシコ・タマウリパス州の大学教授で、そこには大学の夏期講座にコンピューターを教えに来ていた。お母さんのオルガもタマウリパスの大学教授、4人の子どもたちと2人の従姉妹も一緒に来ていた。従姉妹たち以外は英語が話せた。同じ時期にその寮に滞在していたカナダ人、アメリカ人、韓国人とともに何度か持ち寄りパーティーを開いた。うちの子どもたちはまったく外国語が話せなかったが、みんな子犬のようにたわむれ、毎日真っ暗になるまで芝生でサッカーをして遊んだ。そのなかでもハイメたち家族はとても明るく親切で、彼らがいたから私たちのカナダ旅行は最高にすばらしいものとなった。別れるとき、絶対にコンタクトをとりあおう、と言って住所とメールアドレスを交換し、それぞれの国に帰っていった。
 
 

ハイメとオルガは今も熱々。お互いがお互いを尊敬しあっている

 そんな彼らが家に招待してくれた。好きなだけ家に滞在してくれていいし、旅行好きなぼくたちとメキシコ国内を一緒に旅しよう、と言ってくれた。去年イギリスから遊びにきた大学教授の家族も、ぼくたちとまわったメキシコは、世界中を旅したなかでも最高にすばらしかったと言っていたよとか、メキシコ紹介のおすすめホームページはこれだよとか、いろんな情報を教えてくれ、英語で書かれたタマウリパス州の写真集まで送ってくれた。私は私で、外務省の海外安全情報や、実際に行った人の話をインターネットで調べたりした。なんせ『地球の歩き方』にも、タマウリパスについては1行も書かれていない。果ては、メキシコ・シティーでの乗り換えのための1泊がなんとなく不安とメールに書いたら、オルガがわざわざ飛行機に乗ってシティーの空港まで迎えに来てくれると言う。
「ここまで言われたら行くしかないね」とまだフラフラ迷っている母に長女は言い放つ。

 カナダのときは何も言わずに送ってくれた夫の両親だが、自分たちの知らない国の知らない人の家に大事な孫を連れてでかけようとしている嫁が、よほどあぶなっかしかったのだろう。もし何かあったらどうするの、と言われた。私もできるだけその心配を少なくしてもらおうと思い、いろんな資料や写真を集め、スケジュールを書き、現地に住んでいる日本人のつてを探して連絡先を教えてもらい、伝えた。
 出発1週間前には夫の両親が壮行会をひらいてくれ、お小遣いまでくれた。それで終わりと思ったら、出発前日には御神米を持ってきてくれて「本当に行くのか、やめる勇気も大切だよ」、そして、当日タクシーが来ているところに、もう一度「本当に行くの。やめてもいいよ」そう言いながら和菓子とタクシーチケットを私たちに手渡した。今回は同行者はなく、私と12歳の瑛子、9歳の喜翔、6歳の遥子だけ。夫はと言えば、日本のビジネスマン、長期休暇など望むべくもない。快く送り出してくれた夫と両親に感謝。
 
 
ハビエルの家の庭で。ハビエルの娘シルビア(左)はマリアナ(中央)と同い年。遙子(右)はマリアナといつも一緒に居たがった

 メキシコ・シティーの空港まで迎えにきてくれたオルガとともに、ホテルで1泊後、一路彼らの住む町シウダ・ビクトリアヘ。空港には家族全員で迎えに来てくれた。感激の再会。抱き合って頬にキス。15歳になったアロンドラ、13歳のカサンドラ、9歳のハイミートとマリアナ、うえの2人は170センチ以上になっていた。みんな成長した。
 シウダ・ビクトリアの空港はこじんまりしていて、駐車場も20台分ぐらいしかない。空港から家までの約30分間、道の両側には何もなかった。実際には草だの土だのあるのだが、絵になる山とか畑とか家とか、そういうカメラを向けたくなる対象となるものが何もないのだ。もしかして、えらいところに来てしまったか、という思いがふとよぎる。
" Bien Venidos! "(ようこそ)
 彼らの家に着いた。私たちには普段アロンドラとカサンドラが使っている部屋を与えられ、彼女らはハイミートとマリアナの部屋、そして彼らは両親の部屋で眠ることになった。私は勝手に大豪邸を想像していたので、十分広くて美しいにもかかわらず、少しあてがはずれた気分だった。

とりわけベッドはシングル2つ分だったので、これで寝相のひどいうちの子どもたちに蹴られながら眠るのかと思うと暗い気持ちになった。双方の子どもたちは久しぶりの再会にもかかわらず、いきなりウノなど始めて盛り上がっていた。私はベッドに横たわり、その子どもたちの声とスペイン語のテレビの音を聞きながら、「ああ、みんなに心配かけて、お金をたくさん使って、貴重な夏休みにこんな遠いところまで私はいったい何しに来たんだろう。スーパーに行くだけでも子どもたちのいい経験になります、なんて言って出かけてきたけど、ほんとにここの小さいスーパーや映画館に行くぐらいで日程が過ぎてしまうかも」と泣きたくなるような気分になった。
 それでも、そんなことを思ったのはこのときだけで、ハイメ、オルガと旅行の計画をたて、実際にいろんな所を訪れることができそうだとわかると、とたんに元気になった。観光しに行くわけじゃない、彼らに会いに行くんだ、なんて言っていたのに、と自分で自分にあきれた。

 
 

グアダラハラで偶然見ることのできたハリスコ州の民族舞踊。激しく踊ってもコップの水がこぼれないことにびっくり

 それから約2週間、彼らと一緒に過ごし、旅をした。訪れたのはタンピコ、サカテカス、ポサ・リカ、グアダラハラ、マンサニーニョなど。どこもすばらしかったが、そのなかで感じたのは彼らの仲のよさ、ご機嫌のよさである。家の中でも、旅行中でも、彼らがケンカしたり、言い争ったりしているのをほとんど聞いたことがない。たとえほんの少し言い合いになっても、一瞬にしておさまり、笑顔になっている。真夜中にホテルに着き、翌朝早くでかけるなどスケジュールがきついときも、両親の仕事の都合で予定が狂ったときも、暑かったり寒かったりおなかがすいたり、どんな場面のときも、彼らは決してぐちも文句も言わない。いつもにこにこし、歌い、じゃれあい、何もかもを楽しんだ。うちの子たちが時折何かを取り合ったり、寝起きが悪かったりして、機嫌が悪くなるのが恥ずかしかった。
 どうしてそんなにもいい子たちなの、とハイメ、オルガに尋ねると、小さいときにしっかりとしつけをしたんだよ、という。うちの一番のルールは「分かち合うこと」なんだ、と。しつけと言ってもねえ、と思っていると、ある日ハイメが話してくれた。実はマリアナはオルガの亡くなった妹の子どもだという。

いちいち人に説明するのが面倒なので、ハイミートと双子だということにしているらしい。マリアナの母親が亡くなってからしばらくはオルガのママと一緒に暮らしていたんだけど、とてもわがままだった。すぐ泣くし、怒るし、自分のものを人に貸してあげることができない、ものすごくけちんぼうだったんだよ、という。そのまま成長していったらきっと彼女のためにならない、二度と会わないならいいけど、親戚としてそんなマリアナとつきあっていくのはたまらない、それならうちでひきとろう、今ならまだ間にあうということになったんだ。彼女がうちに来てからは家中みんなでマリアナに「分かち合う」ってことを教えたんだよ。特にハイミート、彼はすばらしい子どもだ、どんなものでもまずマリアナに与えて、自分はあとまわし、いつも優しく彼女に接した。マリアナはもう5歳だったから何が起こったかわかっていたけど、すぐに僕とオルガをパパ、ママと呼んだよ。でも、マリアナの父親はまだ元気なので、マリアナがうちの養女になるのはとても難しいことなんだ、そしてそのために海外旅行や法律上の手続きが必要なときはものすごくややこしいんだよ。だって、姓のちがう僕が保護者であるわけだからね。

 
 
タンピュの海で。商売道具一式積み込んで売りに回る(参考写真)

「信じられない」
 私は思わず叫んだ。遥子の面倒をよく見てくれて、やさしくてかわいいマリアナが以前はそんな子どもだったなんて。ハイメの決断と、オルガの気持ち、子どもたちの偉大さ、マリアナの心情を思うと涙がでてきそうになった。サカテカスのホテルのレストランで最後の1組になるまでハイメとふたりで話し込んだこのときのことがあってから、私は彼らに一層尊敬の念を抱いた。
 このことはハイメ一家だけの話であるが、何人ものメキシコ人と接していてほかにも驚いたことがある。「Mi casa es a su casa(私の家はあなたの家)」という考え方である。日本を出発する前にメールで、荷物をできるかぎり少なくしたいから、そちらのバスタオルやドライヤーを借りてもいいか、と尋ねたとき、もちろんです、うちにあるものは何でも使ってください、私の家はあなたの家です、と答えてくれた。へえ、と思ったけれど、それは彼らだからそんな言い方をするのだろうと思っていた。

 しかしそうではないことがだんだんわかってきた。彼らのコンパードレ(子どもの名付け親同士)である友人宅に私たちだけで遊びに伺ったときだった。ママとおばあちゃんと子どもたちはほとんど英語が話せなかったので、私たちはなんとかスペイン語だけで意志の疎通を図った。それもまた楽しくて、一緒に焼き立てのパンも買いに行った。英語が少し話せるパパのハビエルはちょっと無愛想で、私たちが来たのは迷惑だったのかな、という印象をうけた。それでも家の中のすてきな家具や絵画やグアダルーペ(メキシコの聖母)の像について話してくれた。この時期しか食べられないトゥーナ(ウチワサボテンの葉の上にできる甘い実)を御馳走してくれて、私と遥子がおいしいというと、うれしそうに笑った。甘いパンやチーズ入りのトルティーヤとチョコラテのセーナ(夕食)をいただいて帰るとき、ハビエルは「またいらっしゃい。忘れないで、Mi casa es a su casa」と言った。私はとても驚いた。ほんの少し立ち寄っただけの異国人に、そんなことを言ってくれる、すごい言葉をかけてくれる人だ、と思った。

 
 

マンサニーニョの海で。みんな高い波がおもしろくて、日が暮れるまで遊んだ

 帰ってから、ハイメとオルガにそのことを話すと、ハビエルは私たちの来訪をいやがっているわけではなく、ちょっとシャイなだけだとわかった。彼の言葉も別にめずらしいことではないという。メキシコの家はとてもオープンで、親戚やら友人やらいろんな人が泊まりにくるのが普通なのだそうだ。そう言えば、ハイメの家にも夏の間オルガの弟さんが滞在していた。旅行から帰ったら、離れて暮らすオルガのママがいたこともあった。それにメイドさんもいる、子どもたちの友人が泊まりにくる、かと言ってベッドがそれだけの数あるわけではなく、リビング、書斎、廊下、好きな所にシーツを敷いて眠るのだった。

 マンサニーニョにあるハイメのご両親の家に泊めてもらったときは、色が白くて上品なハイメのママが私の手をとり、「Mi casa es a su casa」と言った。彼女はハリスコ州の名物料理ポソレ(臓物とジャイアントコーンを煮込んだもの)を用意してくれていた。同じ部屋の3つのベッドにハイメとオルガ、私と遥子、マリアナと瑛子が寝て、喜翔はハイミートとともにリノリウムの床で寝た。冷たい床は涼しくて、この夏一番の暑さと言われたこの夜、みんなが彼らをうらやましがった。うえの2人は近くの従姉妹の家の床に寝た。
 日本だと、外国から誰かが泊まりにくるとなったら、個室を用意しなくちゃとか、ベッドは、シーツは、と大層に考える人が多い。しかし、メキシコでは歓迎する気持ちはめいっぱいあるけど、もっと自然に構えている。サルサの辛さがやみつきになるにつれ、だんだんメキシコの居心地のよさにひかれていった。

 
 

 

 お土産やさんでは「Mi casa es a su casa」と書かれた売り物の看板を見つけた。飛行機の中では、ころがったボールを拾ってくれた後ろの席の人にお礼の折り鶴を差し上げたときに、その言葉を言われた。旅の最後、ロスの空港で、今から1年間日本の大学に留学するという21歳のマリアナと知り合った。彼女の英語は流暢で、日本語も少し話せたので、いろんなことを話し合った。彼女によると、その言葉はメキシコ人の文化というか気質というか、性格をあらわしているそうである。彼女の家もキッチンのドアはカギを閉めず、いつでも友人や親戚が入って来られるようになっているそうである。

 まったく文化、習慣の違う国を旅し、子どもたちはひとまわり成長し、私は価値観や考え方の幅が広がった。両親や夫に帰国報告もでき、「いい旅行だったんだね」と言ってもらえた。今、私はメキシコで撮った写真を使って自宅でスライド・トーク・ショーをしている。上映後は、タコスやワカモレ、マンゴージュースを味わってもらう。人に紹介するためにはいい加減ではいけない、と本や資料を読み直し、メキシコで味わった料理の味を再現しようとしている。大学生のマリアナはあれからもう二度泊まりにきた。一緒に京都に行ったり、お祭りに行ったりした。スペイン語、英語、日本語ちゃんぽんで、メキシコの話、家族の話、フィアンセの話、いっぱいしている。そうしてどんどんメキシコが好きになっている。行こうかどうしようか悩んだり、ビクトリアに着いたその日に悲しくなってしまったのが嘘のようである。
 来年にはアロンドラとカサンドラが日本の高校に来るかもしれない。そのときに「私の家はあなたの家です」と、どーんと構えるママでありたい。

 
著者プロフィール/1961年生まれ 大阪府在住 主婦、写真作家