たびっと倶楽部の旅ふれあいマガジン
23号H14.12.1発刊
 
 チロルからウィーンへ
五感で触れる自然と美術の旅
チロルからウィーンへの巡り方
あれよあれよのサファリ珍道記
ハービスたびっと倶楽部会員優待加盟店・特典のご案内

 ひとつの出会い


 

中国人留学生が、刈込湖への峠道で、くたびれた顔をしてベンチに座っていた。私との出会いであった

 

奥日光の湯元から刈込湖への坂道を上っていた。ブナなどの樹林帯の山道で、紅葉にはまだはやい時期であった。仲の良さそうな20代の男女が私を追い抜いていく。ふたりはともに地図をもたず、簡単なガイドブックを手にする。途中の休憩べンチで休む男女に、私はふたたび追いついた。
 元気の良かったふたりの顔には、やや疲労感が現われていた。山特有の簡単な声をかわしてから、どこから来たの、と私は訊いてみた。上海から兄妹で日本の大学に学びにきました、と抑揚には多少の違和感のある日本語で応えていた。この場では千葉県内の大学の留学生だというていどの認識で終わった。
 峠からの坂道を下り、林間に陽光がきらめく刈込湖を過ぎたあたりから、ふたりのペースが極端に落ちてきた。ガイドブックでは距離感がつかめない。山のなかで行けども行けども目的地に到達しないとなると、気持ちばかりが焦り、疲労感がからだに襲いかかってくるものだ。すり鉢状の草地が輝く美観の涸沼までくると、兄妹はもはや動きたくない表情で、石のうえに腰を落とした。
「ずいぶん疲れているね」       
 私はザックからバーナーとコッフェルをだし、コーンスープを作り、差し向けた。ペットボトルの水をも飲み干していたことから、多少のところ分けてあげると、ずいぶん喜んでくれた。

 ふたりは打ち解けた表情で、兄妹して日本の大学に留学してみたが、親からの送金だけではやっていけず、不況の日本ではアルバイトも満足にみつからず、学費がつづかないし、中退して帰国するのだという。日本での最後の思い出づくりとして日光にきたのだと説明する。学費不足から志半ばで帰国とはかわいそうだな、と私は同情をおぼえた。
 3人はごく自然に行動がともになった。私は登り道で兄妹の体力に見合った歩行ペースを作ってあげながら峠を越えた。道みちで、樹木の蜘蛛をみれば、毒グモ? と妹のほうが訊いてきた。脇から飛び出した蛇をみれば、毒ヘビ? と怖がる。
「日本には、マムシはいるけど、毒のある動物はそんなにも数多くいないよ。心配しなくても大丈夫だよ」
 熊笹の長い道を下ると、乳牛の鳴声がきこえてきた。光徳牧場ではバス待ち。私がアイスクリームを買い求め、3人で食べた。和気藹々としたなかで、わが家の家族構成などを話した。兄妹の話題はやがて日本の政治経済に及んだ。よく勉強しているな、というのが実感だった。中禅寺湖のバス停で、私は途中下車を勧め、華厳の滝を見せた。落差のある轟音の滝にはずいぶん感動していた。
「こんど上海に、ぜひいらしてください」
「機会があれば」
 浅草駅で、私はあいまいな約束ことばで別れた。
 
 

招かれて上海へ行く。
左から義母、妻、著者

 翌月、兄から日光でのお礼の手紙がきた。そこには上海への招待の内容が熱っぽく書かれていた。こちらから返書をだすと、妹からクリスマスカードがとどいた。電話番号が添え書きされていたことから、私はなつかしさもあって年明けに国際電話を入れてみた。中国では旧正月を祝うらしく、正月だという浮かれた感じは伝わってこなかった。
「奥さんとぜひ上海にきてください。日本からだと、ビザは簡単に取れますから」
 兄妹は電話を代わりながら、異口同音に招待のことばをむけてきた。
 たった一度の日光の出会いで、のこのこ上海まで出かけていってもいいものなのか、社交辞令かもしれない、と私は逡巡した。一方で、これまで夫婦一緒の海外旅行の経験がないし、一度は妻を海外旅行につれていってやりたいと思っていた。……ここ数年、妻は間質肺炎から長い闘病生活を余儀なくされていたし、快気祝いにもなる。そのうえ、いまどき妻を家庭に閉じこめてばかりだとかわいそうだし、気分転換になるだろう。

「お言葉に甘え、上海行にいってみるかな」
 私は年内の実現を約束しながら電話を切った。その場で、私は妻に日光の出会いからの推移をひと通り説明した。すると、外国人の友達ができるなんて素敵じゃない、と妻は喜ぶ。この際、実家の老母も親孝行で上海に連れていってあげたいという。
 私にはなおも社交辞令でしか過ぎなかったならばどうなるのか、という不安があった。妻のみならず、70歳後半の義母にまで不愉快な思いをさせるのではないか。リスクを回避させるためにも、私は旅行会社の自由時間の多いツアーを絡ませることにきめた。出発は6月中旬だった。
 梅雨のシーズンオフからして、ツアー客は最小の私たち3人だけであった。ある意味でラッキーだと思った。高齢の義母の足に、ガイドが合わせてくれるだろうと期待がもてたからである。
 
 
南京路の飯店で、元留学生の家族から歓待される。ここで蛇料理を食べさせられる

 上海空港に着くと現地の旅行会社のガイドが迎えにきていた。翌日は事前に決められたプランどおり、ホテルから市内観光、さらに蘇州への小旅行だった。ガイドは上海大学日本学科の学生だといい、ことのほか親切で、期待どおり母の歩行ペースに合わせてくれた。見学した先はわずかだったが、義母は夢にまでみた寒山寺に行けたと満足顔であった。
 3日日の朝、打ち合わせどおり、兄妹が私たちの滞在するホテルまでやってきた。再会を喜びあった。私たち3人がツアー観光でまだ見ぬ先を案内してくれた。楊浦・南浦大橋を渡り、88階の高層ビルの最上階に上った。広大な遠望を愉しむ一方で、兄妹がそれぞれ上海の千百年の歴史を教えてくれた。ところが、展望台は一部工事中で、コンクリートの削り音がひどく、満足に聞き取れないこともあった。通路には器材が山積みで、観光客よりも工事が優先される、という日本ではちょっと考えられない光景だった。
 玉仏寺にも案内してくれた。ルビーで造られた艶やかな仏像が私の目を惹いた。それ以上に、本堂まえで合掌する兄妹の背筋は、きりっと一本通っていた。真に仏教徒なんだな、と感慨をおぼえた。少なくとも、私のように賽銭を投げ込み、ただ身勝手な願い事をする、中途半端な態度の人間とはちがう。

 外灘 (バンド)の夕暮は小雨で濡れていた。周辺の道路には大勢の中国人が行き交う。多くが雨合羽姿で自転車に乗る。日本のように片手で傘を差し、もう一方でハンドルをもつものは一人もいない。生活様式のちがいというよりも、そうした乗り方は禁じられているらしい。
「私たちの家族が待っています。さあ、飯店に行きましょう」
 案内された場所は、朱塗の華美な飲食店が両側にならぶ南京路だった。そのなかでも一、二の有名な店だとおしえられた。3階の個室で、両親とか、兄嫁とか、2歳半児とか、それぞれの家族紹介が行われた。
 兄のほうは乳幼児をもちながらも日本に留学していたのか。勉学熱心な態度にはおどろかされた。嫁の働きと、両親の仕送りに支えられていたから、それらに応えるためにも、卒業まで日本の大学で頑張りたかったと残念がる。私は兄妹の旺盛な向学心に敬服する一方で、兄妹の志が頓挫する、日本の留学生の受入れ体制に強い疑問をおぼえた。
 最近の日本国内の報道をみると、密入国とか、不法滞在とか、凶悪犯罪とか、中国のイメージが悪化する傾向にある。しかし、こうした兄妹に接し、一律に民族や人種を見てはいけないのだ、どこまでも個人を見つめるべきだと再認識させられた。

 
 

元留学生の兄妹とその母親を東京のわが家に招く。妻が手巻き寿司で迎えた

 海鮮料理がつぎつぎと出てきた。父親が私のとなり席から、ある一皿の料理を指し、執拗に勧める。私は兄殊に父親の通訳を兼ね、なんの料理かと質問した。まず食べてからね、と応えなかった。一口食べたが、格別な味ではなく、淡泊な感じだった。二箸、三箸とすすめていると、蛇料理だという。
「うえ」
 私の態度を見、まわりは大笑いになった。それが契機となって、いっそうなごやかな団欒になった。
「こんど、ご両親も一緒に日本に来ませんか。歓迎しますよ」
「ありがとう」
 お礼のことばのあとで、中国から日本ヘビザを申請しても簡単におりないし、まず日本での身元保証人が必要だという。
「私がなりますよ」        
 妹が母親に上海語でそれを教えていた。母親は感動した表情で、感謝、という言葉を何度も繰り返していた。

 帰国後、何度かの文通のあと、私は外務省に提出する招聘保証書の記載をはじめた。『知己を得た経緯および交際・交遊を深めた経緯』という項目にたいして、日光の出会いから上海訪問までを書いた。裏付け資料は日光ハイクの写真とか、南京路の飯店での団欒の写真などであった。保証人の書類が一式そろうと上海に送った。
 日本のビザがおりたあと、兄妹と母親とが上海から成田空港にやってきた。父親は仕事の都合で来られなかったようだ。
 こちらで用意したホテルに案内してから、わが家に招いた。料理好きの妻が食卓に手巻き寿司のセットを準備して迎えた。食前に、上海からの豊富な手土産が差し向けられた。とくに目を惹いたのは、朱塗の額縁に入った飾り物の刺繍だった。両サイドから見ても、絵柄がまったく同一。どのように刺繍したのか、不思議な気分になる、芸術品ともいえる品だった。肺臓を長く患った妻には、中国の強壮剤とか、ロイヤルゼリーなどが贈られた。妻の健康を気づかってくれる態度が如実に現われていた。

 
 
奥日光へとキャンプに出かける。兄妹は嬉々としてザックを背負う

 話題のひとつはスケジュールだった。あすからの3日間は私たち家族がいろいろ案内する。残る日数は、兄妹と母親とで自由に行動してもらう。感謝、という言葉がまたもや繰り返された。
 翌日は、予定どおり江戸川の景観が楽しめる柴又に案内した。上海の母親が、大勢が集まる観光地でもゴミが落ちていませんね、と感心していた。私はこう説明した。最近の観光地の傾向として、どこもごみ箱を置いていない。だから、だれもがゴミを出さなくなった。また、持ちかえるようになった。そんな説明のさなか、私の視線が散策路に棄てられた汚い煙草の吸い殻をとらえていた。
 私は思わず拾った。
「いつも、そうしてゴミを拾われているんですか」
 私は言葉に詰まった。苦笑しながら、明確な答えは避けた。むろん、私にすれば、吸い殻拾いは生まれてはじめての行為であった。

「明日からのことですが、キャンプに連れていってくれませんか」
 兄から唐突な申し出を受けた。その理由として、日本では簡単にキャンプできるけれど、治安が不安な中国で野山にテントを張れば、強盗に襲われるという。実現すれば、キャンプは一生の思い出になるでしょう、と付け加えた。
「希望する場所は?」
「日光にもう一度行きたいです」
 湯元にはキャンプ場がある。一日歩いたあと、温泉に入れる。さして登山経験がなくても、大丈夫な場所は多い。私は了承した。
「奥さんも行きませんか」
 妹が私の妻を誘った。肺炎を患って呼吸に不安があるからといい、妻は辞退した。すると、上海の母親も山歩きを嫌った。
「お連れして、都内観光をすればいいんじゃないか」
「そうするわ。ことばが通じなくても大丈夫でしょ」
 妻は快く承諾した。

 
 

 急な予定変更だけに、私は忙しい気分になった。テント道具は一式もっているけれど、3人分となると寝袋やエアマットがたりない。私はその場で携帯電話を使い、複数の山仲間から幾つかの登山用具を借りる約束をとりつけた。さらにはキャンプ地での食事メニューを考えた。おでんとか、カレーうどんとか、簡便な日本食を中心に組み立ててみた。
 柴又からの帰り道で、夕立に遇った。5人は手近なところでスーパーに駆け込んだ。正面玄関には客の傘が無造作に置かれていた。
「盗まれないんですか」
 母親が心配する。
「まったく大丈夫ですよ。なかには傘を間違うひとはいるけれど」
「中国では考えられない。盗られてしまう。こんなところに置く人もいない」
 日常の光景のなかにも、文化や考え方の違いを知った。私の知識の領域がずいぶん拡がっていく心地だった。

 キャンプ道具は借りる相手の都合もあって夜になった。ひと通りそろうと、私は深夜までそれぞれ3人分のザックに詰めこんだ。
 翌日、ホテルからわが家にやってきた兄妹は部屋のなかでザックを背負った。体力に応じた按分に配慮したつもりだったが、兄妹の間で重いとか軽いとか、もめはじめた。上海語が理解できない私は、真に迫った喧嘩かと思っていたら、それは単なる戯れだった。
 最寄り駅まで、私の妻と上海の母親が送りにやってきた。兄妹はみるからに心が弾んでいる表情だった。
 東武浅草駅から快速に乗ると、私は日光の地図を広げ、戦場ヶ原、小田代ヶ原などのルートを説明した。キャンプの楽しみ方なども、レクチャーしておいた。
 車窓にはやがて日光連山が見えてきた。快晴の空の下で、山並みが鮮明に浮かんでいた。

 
 

 私はひとつの質問をむけた。先の日光ハイクは、日本を去るにあたっての思い出づくりだと聞いたけれど、なぜ有名な戦場ヶ原ルートを取らず、刈込湖へいったのかと訊いた。刈込湖ルートは、山慣れたハイカーが静けさを求めてやってくる、ある意味で穴場であった。
「戦場ヶ原にいくつもりで、湯元までいきました。道がよくわかりませんでした」
 兄が答えた。
「迷ったわけだ」

「途中で、探すのをあきらめたんです。でも、いつか戦場ヶ原に来れるといいねと、兄と話していました。それが実現しました」
 妹が笑顔でいった。
「ほんとうに、偶然な出会いだったんだな」
「幸運な巡り合わせでした。わたしたちには」
「それは同感だよ。国境を越えて、行き来できる友人がはじめて持てたんだから」
 私は心のなかで、家族ぐるみの交際をより大切に深めていこうと決めた。

 
著者プロフィール/1943年生まれ 東京都在住 会社員