たびっと倶楽部の旅ふれあいマガジン
24号H15.3.14発刊
 
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 美しきトスカーナ


bella toscana

トスカーナの田園風景。前方にオリーブの木立ち、右手前に葡萄畑が広がる

「Nessun dorma, nessun(誰も眠りはしないだろう、誰も・・・)」
 まだ薄紫色の朝もやの中、パバロッティのテノールが朗々と葡萄畑に響き渡る。
「ちょっと音、大きすぎないかな?」
「いいよ別に、彼の家なんだから」
タローくんはにべもなくそう言うと、年期の入ったテラコッタ色に日焼けした上半身に光を浴びながら、朝ごはんのための木苺をせっせと摘んでいる。

 なだらかな黄金色の丘陵地帯、点在する糸杉の並木、右手には葡萄畑、左手にはオリーブ畑。ここはキャンティ・ワインの産地で有名な、中部イタリア、トスカーナ地方だ。
 私は一昨日の朝、パリから特急電車で7時間かけてミラノに住むタローくんの家まで辿り着き、翌日2人でフィレンツェへと3時間、そしてさらにローカル線で30分かけてここトスカーナの片田舎、モンテイオーネまでやって来たのだった。はるばる地を這ってという気がしないでもないが、飛行機で一足飛びしてしまっては途中の変化に富んだ景色を見落とすことになる。実際フランス国境からスイス・レマン湖畔を抜けて見あげるシャモニーの山々は、溜め息が出るほど美しい。

 トスカーナと呼ばれるこの一帯は、フィレンツェ、ピサ、シエナなどの比較的大きな都市を含む約300余りの町や村で成り立っている。フィレンツェから50km離れたここモンテイオーネは、タローくんの親友である、やはり在ミラノの広告マン・マキシミリアーノくんの御実家・ボンシニョーリ家によって長く統治され、現在でもその土地の多くが一家の管理の下にある。ここで栽培された葡萄で作ったワインやグラッパ(葡萄の絞りかすを発酵させて蒸留したリキュール)、オリーブオイルには、「ボンシニョーリ」の家紋がうやうやしく付けられている。ということで、眼前に広がるこの絵に描いたようなトスカーナの田園風景は、彼「マキシミリアーノくんの家」なのだ。
 「もうこのくらいでいいね」。タローくんは皿にこんもりと摘み取った木苺を満足気に見せる。木苺だけでない、日本では余り見られない黒苺の実もたわわに生っている。少し丘を下った所にはトマトも栽培され、真っ赤な実が朝露に濡れて光っている。一昨年ミラノで、ここのトマトを煮詰めて作ったソースによる「スパゲッティ・アル・ポモドーロ」をご馳走になって以来、是非今度はトスカーナに・・・という希望が今回現実となったのだ。
 
 

朝露に濡れて光るトマト

 サクサクと柔らかな草を踏み、オリーブ畑を抜けて丘を下りていくと、マキシミリアーノくんが芝生に水を撒いていた。
「ボンジョールノ! お二人さん、散歩は楽しかった?」
「領主」が尋ねる。
「ボンジョールノ、ボンジョールノ!」
今朝着いたばかりというドイツ人一家が、トランクを車から降ろしながら「領主」に挨拶する。丘に点在するトスカーナの夏の家の住人たちだ。
 マキシミリアーノくんの父君は、この素晴らしいトスカーナの自然を多くの人々にも是非愛でてもらいたい、と考えたかどうかは知らないが、特に見晴らしの良い場所を選んで石造りの屋敷をいくつか建て、夏のバカンスの家として貸すことにしたのだった。
 「農家」「たばこの家」「干し草の家」と名付けられた3軒の屋敷はそれぞれに異なった風情を持って建てられ、内装も漆喰の天井にアルコーブ(貴族の邸などで、ベッドをはめ込むために壁の一部を切り込んだ場所)あり、暖炉あり、と優雅な田園気分を盛り上げるための工夫がなされている。しかしやはり極めつけは、どの部屋からも窓を開けばそこにトスカーナの大パノラマを見渡せることだろう。合計8世帯の家族が滞在できるこの夏の家は、来年まですでに予約で埋まっているという。

 滞在者が共有する大きなプールは、piscina(伊)pool(独)swimming-pool(英)piscine(仏)と、注意書きも一緒に4ヶ国語で表示されている。
「昨日プールを洗ったから、今日は気持ちがいいよ」
高台に備え付けられた噴水から水が勢い良く注がれる。

 ここではマキシミリアーノくんはプールを洗い、草を刈り、家を管理し、滞在客のスケジュールの調整もしてと、忙しい。「Mia terra(僕の土地)」と彼は言う。彼は同じトスカーナ地方のヴィアレッジョという街で生まれ、後ずっとミラノで育っているが、モンテイオーネは子供の頃、毎年夏を過ごした場所だ。今では週末できる限りミラノからここに通うようにしているそうだ。自分の人生に属する土地への愛情を、素直に持ち続ける彼のことをときどき羨ましく思う。
 北ヨーロッパの人々の、太陽の輝く南の土地への憧憬は強い。ゲーテが「太陽の国・イタリア」への恋心を切々と「イタリア紀行」に綴ったのは18世紀のことだが、2世紀近くを経た現在も、太陽の国へのあこがれは相変わらずだ。特にドイツ人などはその気候・国民の気質の違いから、例えばフランス人が「お隣の国イタリア」を訪れるのとは、さぞかし気分を異にするのではと想像する。実際ここモンテイオーネにやって来るのも、ドイツ人が一番多いそうだ。
 畑でもいだトマトに自家製のオリーブオイルをたらしたサラダ、数種類の土地のチーズに生ハム、木苺に黒苺のデザートとトスカーナそのものの朝食をとり、満ち足りているタローくんと私の前にマキシミリアーノくんが現れた。
「ちょっとMamma(お母さん)の所に行ってくるから、受付にいてくれる?」
そうなのだ。私とタローくんは「領主」(正確にはその御子息)のゲストとして、この夏の家に数日居候させて頂く事になっていたのだった。領主の方たちは、ここから数百m離れた所の屋敷に住まわれているので、こちらの夏の家を利用する事は、持ち主とは言えどない。受付に僅かの間座る事くらい取るに足りません、とプールサイドが人で埋まって行くのを横目でチラリと見ながら玄関へと移動する。
 
 
芸術作品のような葡萄の房。この葡萄がキャンティ・ワインに!

 丘陵の3軒の家に落ち着くためには、来訪者たちはまずこの「受付」を通過してカギを受け取らねばならない。車道から葡萄畑に続く細い山道の後は車を乗り入れる事はできず、ちょうどその行き止まりに受付を兼ねた宿泊もできる4軒目の家がある(私とタローくんはここに宿泊していたのだ!)。
 正面の壁には1900年当時のモンテイオーネの景観を描いた銅版画と、やはりその時代のセピア色になった街の地図。そして棚にはボンシニョーリ家の銘柄のワイン、グラッパ、オリーブオイルの大・小の瓶が室内のデコレーションよろしく陳列されている。
 今朝葡萄畑を散歩する際、「畑の葡萄はまだ採り入れには早すぎるけれど、房の色合いや形が刻々と変化するのを楽しむには、今は一番良い季節だ」とマキシミリアーノくんが教えてくれたがその通りだった。直径1p程度の薄緑色の小さな粒から最高3pの深い紫色に熟した粒まで、大小の粒が色彩のグラデーションを成して一つの房に連なっている様はまるでガラスで出来た精巧な美術品の様だった。あの葡萄が多くの人々の手と時を経てこのワインになるのか・・・と、しみじみとした面持ちで棚のワインを眺めていると、ドヤドヤとどうやら次なる夏の住人たちが御到着あそばした。

 オランダからという総勢10人程の一家は、タローくんと私を見ると「Hi!」と挨拶をした後、さてその続きは何語で話すべきかと家族会議を始めた。タローくんも私もオランダ語はもちろん、ドイツ語も解すことは難しい。お父さん行ってよ、だめだめ、この人がしゃべるくらいなら私が行くわ、とお母さん。アレヤコレヤと待つこと5分余りで、どうやら中学生くらいの息子らしき青年が代表に選ばれたようである。「ではここにお名前と、身分証明証と・・・etc」。結局ごくごくベイシックな英語が共通言語になったのだが、この中学生の坊や、いちいちオランダ語で「ここはこれでいいよね、これは誰の名前にしておくの?」とかなんとか父母に尋ねたりしているので、全てが終わるのに恐ろしく時間がかかってしまった。受付も楽ではない。
 すでに到着ずみのフランス人の夫婦が、近くのゴルフ場へ行くのにはどこを通って行ったら良いのかと尋ねてくる。夕食に飲みたいのでと、ワインを1カートン買いに来る。今朝着いたばかりのドイツ人の家族が、水着姿でヤアヤアと手を振って通り過ぎて行く。野外に設置されたオーディオスピーカーからは、マキシミリアーノくんがプログラミングしたイタリアン・オペラが朝からずっと流れている。空は雲ひとつなく晴れ渡り、太陽は今日も1日照り続けるだろう。空気が熱を帯びてきたのを肌に感じながら、私は自分がトスカーナにいる事をしみじみと実感していた。

 
 

旅の想い出・・・

「お待たせいたしました!」
マキシミリアーノくんが片手を挙げ、私からの贈り物の団扇をヒラヒラはためかせながら大袈裟におどけて入ってきた。これでも一応(とタローくんは言う)貴族の称号を持つ彼だが、その気取りのなさといったらない。
「今夜アントニオの店に案内するからね」
アントニオは地元の農家の息子で、マキシミリアーノくんの幼友達であり、ここトスカーナでレストランを経営している。土地の料理を出す、ということでいつも地元の人々でいっぱいなのだそうだ。
 観光地とは決して呼べないこの小さな街(モンテイオーネ)では、レストランも数える程しかない。従ってここを訪れる人たちは、トスカーナそのものの景観をとどめるこの地の自然を満喫することをまず目的とする。

 夏の家の住人たちも、朝起きてテラスで食事をとり、木陰で読書をし、プールでひと泳ぎし、近くの丘や山道を散策する。そして夕暮れには再びテラスでアペリティフなどを片手に、光のスクリーンに照らされて刻々と変化してゆく景色に魅入る・・・という滞在型の旅だ。しかし車で数km走れば、シエナ、サン・ジミニャーノのような個性豊かな歴史のある街を訪れることもできる。この小都市の多様さは、都市国家の集まりであるイタリアという国の奥の深い魅力だろう。
 陽が暮れ始める頃、私とタローくんとマキシミリアーノくんの3人は、ちょうどモンテイオーネの丘陵の対岸にあるというアントニオのレストランへと車を走らせていた。路は真っすぐに伸び、遠くにサン・ジミニャーノの街の城壁が、影絵のシルエットのように何も遮る物のない空に黒く浮かび上がって見える。トスカーナの昼間の空は青く深い。そして晴れた日の夕暮れは荘厳な緋色だ。それは一つの儀式を見るようにゆっくりと深淵な闇へと変貌して行く。私たちは闇に吸い込まれてしまわないうちにレストランへ到着しなければならなかった。街灯も何もない路があるからだ。

 
 
荘厳な夕暮れの風景。昼と夜の入れかわる時

 アントニオの店は山道の黒闇の中に、そこだけ灯されたランタンの如くひっそりとあった。しかし一旦中に足を踏み入れるとテーブルは殆ど客で埋め尽くされ、イタリア語の喧騒で部屋中が熱気を帯びている。明るく人の好きそうなアントニオは、久しぶりにここを訪れるタローくんとマキシミリアーノくんとの再会を喜び、初めての私には特製の食前酒をふるまって歓迎してくれた。
 マキシミリアーノくんが、ここに来たからには是非とも味わって帰らなければいけない「絶品」と勧める、「ウサギの煮込みトスカーナ風」を注文する。厚手の素焼きのカスロールの蓋を開けると、ほっこりとしたウサギの肉塊がトマトソースの中でぐつぐついっている。ウサギは初めてではないが、その歯応えと野趣に富んだ風味と(もちろんここ、地元の野生のウサギです)トマトの味の濃さに、またまた胃袋にしっかりとトスカーナを詰め込んだ気がした。

 アントニオに見送られて3人は再び闇の中を帰路に向かう。途中街灯のある広い車道に出るまでの山道は、ヘッドライトの灯の向こうは殆ど何も見えない。できるだけソロソロと車を走らせる。マキシミリアーノくんが
「トスカーナは好きかな?」
と、振り向いて後席にいる私に尋ねる。
「Si, cèrto!(ええ、もちろん!) アッ―――――――――――!」
次の瞬間咄嗟にブレーキがかかって車は急停車し、3人とも一瞬息を呑んだ。ヘッドライトの先に何か見える。たぬきだ! チョロチョロとせわしなく姿を現したかと思うと、別に逃げるふうでもなく、立ち止まってこちらをチラリと見る余裕だ。
「まったく! これがトスカーナだよ」
運転していたタローくんは額の汗を拭いている。マキシミリアーノくんは両手を上に挙げて目を閉じたままだ。私はといえば、とにかくトスカーナの幸福な夜が不意の事故によってかき消されてしまわなかったことに感謝しながら、突然現れたどこかユーモラスなたぬきを、安堵の溜め息でただただ眺めていたのだった。
 ああ、BELLA TOSCANA!(美しきトスカーナ!)

 
著者プロフィール/1967年生まれ、パリ在住。 大学院生/画廊勤務