たびっと倶楽部の旅ふれあいマガジン
25号H15.6.10発刊
 
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ゴールドラッシュ、再び



bella toscana
ブラジルには雨季と乾季があり、乾季になると、雨はほとんど降らない。7月のポルトベーリョの町は渇き、霞んでいた。赤土と赤煉瓦が印象的である

 月の灯りと裸電球に照らされて、黄褐色に濁ったマデイラ川がさらさらと揺れている。暗闇の中にうっすらと浮かび上がってくる、ジャングルの深い森が微かに見える。日本から遠く離れた地球の裏側、アマゾンの山奥にいることを実感するために、穏やかにゆっくりと流れる川面をいつまでも眺めていた。
 かつて、マデイラ川はゴールドラッシュで沸いたことがあった――。

 南米大陸の大部分を占めるブラジル。その中西部のロンドニア州を流れるマデイラ川には、金を求めて2000隻もの浚渫船が浮かんでいた。当時、周辺にはシュラスコ料理店をはじめ、バー、売春宿などが軒を連ねていた。金は一か所で何年も続けて採ることができないため、場所を転々と変え、集落になることはなかった。船が移動すると、店も同じように移動した。
 しかし、90年代に入ると、金の産出量は急激に落ち込み、一攫千金を狙う『ガリンペイロ』と呼ばれる金掘り人夫とともに、そのほとんどの船が姿を消した。ブラジルのゴールドラッシュは、17世紀末にミナスジェライスで金鉱が発見されて以来、その噂を聞きつけて各地から殺到したのが、その始まりとされている。

 ロンドニア州のポルトベーリョで4隻の浚渫船を所有する橋口和正さんは、父の古い友人である。1941年に熊本で生まれ、12歳のときに一家でブラジルに移住した。マナウスの青果市場で働き、ベレン、サンタレンで農機具などの販売を始めたが、当時からブラジルは好不況の波が激しく、日系人の仲間たちと事業を起こしては倒産を繰り返した。
 あるとき、友人が金堀りをしているのを見て、始めたのがきっかけだった。1982年のことである。最初の2年間は農機具販売と掛け持ちだったが、すぐにポルトベーリョに移り住み、専念するようになった。
 エンジニアとして単身ブラジルに渡った父とは、マナウスで知り合った仕事仲間だった。そんな父と、一家でベレンに移住した母とが結婚し、私は生まれたが、1歳のとき、両親とともに帰国。以来、今日まで日本に住んでいる。そして、4年前の夏、私の故郷であるベレンに20年ぶりに里帰りした。そのとき、マナウスで橋口さんと会い、彼に誘われるまま、ポルトベーリョの金堀りの現場に行くことになった。
 
 
ジャングルを抜けるとマデイラ川のほとりに辿り着いた。モーターボートで浚渫船に近づく。橋口さんはこの浚渫船を4隻所有している

 街は渇き、砂埃が舞い、霞んでいるように見えるが、空気が汚れているわけではない。7月も終わりを過ぎると乾季に入り、雨はまったく降らない。ロンドニア州の州都、ポルトベーリョは、赤煉瓦の建物と赤土が印象的な人口30万人ほどの小さな町で、ボリビア国境まで320qの距離にある。ガイドブックにも載っていない町には、現地の日系人の姿すら見かけることはなかった。
 19世紀の終わりにアマゾン河の上流で天然ゴムが発見されて、北部のマナウスを中心に一大ゴムブームが巻き起こった。?枕木1本にひとりの命?と呼ばれるほどの苛酷な労働とマラリアによって、多くの犠牲者を出しながらマデイラ鉄道は開通した。そんな鉄道も今では煉瓦づくりの瀟洒な駅舎とともに、当時の面影を残し、日曜日には薪を積んだSLが観光客を乗せて静かに走っている。
 金は作物と違って種を蒔いて生えてくるものではない。採れるときは儲かるが、採ってしまえば終わりである。採りやすいところはすでに採り尽くされていて、金の量も限られている。それでも、かつてのゴールドラッシュが忘れられず、「夢よ、もう一度」と、金塊探しに明け暮れる。金掘りはギャンブルであり、麻薬のようなものなのかもしれない。一発当たれば大きいが、リスクも大きい。

 ゴールドラッシュ全盛を誇った80年代初め、多いときにはわずか10時間で700gも採れたという。所有していた3隻の船で1kgから2kg近く採れることも珍しくなかった。当時、2000隻近くも浮かんでいた船も今では80隻ほどに減っている。

 BR364をトラックは120kmのスピードで南へ下る。渇いた大地に伸びていく地平線、ヤシの木が鬱蒼と生い茂るジャングル、ところどころに見られる牛の放牧。そんな単調な風景がすでに2時間以上も続いている。途中で脇道に入ると、クルマ1台が通れるほどの荒れた道を10?ほど進む。突き刺さるような日差しが容赦なく照りつけ、開け放った窓からは木の枝や葉っぱが跳ね返り、顔やヒジを直撃する。体は宙に浮き、何度も天井に頭を打ちつけられそうになるほど、トラックは激しく揺れながら大きくバウンドする。
 この付近はたびたび強盗が出没するらしく、先日も橋口さんの友人であるブラジル人のオーナーが、採取した金を持って町へ帰る途中、強盗に襲われた。橋口さんは護身のためにいつも12連発のライフルと38口径の拳銃をトラックに積んでいるが、この日に限って、「急いで家を出たから積むのを忘れた」と、まるで、携帯電話でも忘れたかのように話している。

 
 
川底から土砂を吸い上げ、4隻の浚渫船が一斉に24時間稼動する。この水の流れの下に砂金が眠っている

 川底の岩に付着した、肉眼で見えるか見えないか、その細かい砂金を集めて、ようやく一つの小さな金の塊になる。その抽出は意外と原始的であり、かつ、これほど細かく地味な作業だとは思ってもみなかった。
 結局、その日は4隻で160gの金が採れた。早速、町へ持って行き、『OURO』と掲げられた金の仲買店でキャッシュに換金する。不純物が入っていないかを確認するため、再度、バーナーで焼き、秤に乗せて重量を計る。当時のレートで金の相場は1gあたり、約10ドルから11ドルで売買されていた。この日の1600ドル(約19万2000円)は多い額ではない。1日1隻あたり、約40から50g採取できて収支はトントン。最低70から100gはないと儲けはない。この日の160gは、最低ラインということになる。
 1隻の船には4人のガリンペイロが3週間泊まり込み、1人が街へ出て1週間休む、5人1組のローテーションで働き、16人で4隻の船を稼動させている。彼らの賃金は1日の生産高の5%が日当で支払われるが、1日の採取量が25g以下の場合、賃金は支払われない。つまり、その日はただ働きである。

 船に寝泊まりしながら働いている彼らの生活は単調である。日本から来た『ジャポネース』は、暇つぶしの格好のターゲットになった。カメラとノートを持って船の中をうろうろしていると、ノートを覗き込んでは「おまえはジャーナリストなのか?何を書いているのか?」と興味を示し、話しかけてくる。「読んでくれ」と言うので書いてある内容を読んでみるが、彼らにはわからないのは言うまでもない。顔を見合わせてポルトガル語で何か言いながら笑っている。
 その夜、『フェイジョアーダ』という煮込み料理を食べながら、彼らとサッカー中継を見た。退屈な毎日の彼らにとって、テレビは数少ない娯楽の一つであり、他の船のガリンペイロたちも食事を終えると、続々とテレビのある船に集まってきた。
 あるとき、香港のB級カンフー映画をやっていて、それを見ながらふざけあっていた。私が「ジャポネース・カラテ」と言って蹴りのポーズをして見せると、彼らはおもしろがって真似をする。ブラジル人にとっての?ジャポネース?とは、カラテであり、サムライである。彼らのイメージにある『ニッポン』を誇張して教え、私たちは妙なコミュニケーションを図っていた。

 
 
金の収穫。OUROはポルトガル語で金のこと。これを町の仲買店に持って行き、キャッシュに替える。1日の収穫量として4隻で160gは多い方ではない

 ガリンペイロの男たちは流れ者が多い。中には素性のよくわからないものがいるのも事実である。雇う方も事細かにそれを問わない。そんな彼らのことを「パラー」とか「クヤバ」など、出身地で呼んでいる。オーナーの橋口さんですら彼らの本名を知らない。オーナーの立場からすると、信用できないブラジル人を雇うのは勇気がいることだが、なによりもむずかしいのは彼らの扱い方である。たとえば、飯がまずいと言って食器ごと川へ投げ捨てたり、ナイフを持ち出したりすることも珍しくない。
 作業の合間に「メシ食ったか」とか「コーヒー飲むか」など、適当に気を使って親切にしてくれる。そこには、悪名高い無法者集団のガリンペイロというイメージはない。世話好きで話好きのどこにでもいる陽気なブラジル人の姿だ。

 意外だと思うかもしれないが、アマゾンの夜は寒い。昨夜はシーツにくるまって寝なければならないほど寒かった。スプリングの壊れたベッドに横になって、目を閉じると船は動いているような錯覚に陥る。移動しながら金の採取はできないので船は止まっているのだが、高速道路を走っているような規則正しい揺れと、エンジン音が心地いい眠りを誘う。

 
 
ゴールドラッシュの夢を追い続ける、橋口さんとガリンペイロたち

 現場では蚊に刺されないように気をつけていたが、腕や首など、何ヵ所か刺された。ハマダラカを媒介とするマラリアは蚊に刺されることにより感染する。防虫スプレーを吹き付けても、長袖のシャツを着ていても、防ぐのは難しい。現場に行くと決まった時、マラリアにかかるのを覚悟したが、日本でマラリアの薬が手に入らないと聞き、帰国して発病したらどうしようと心配したが、後日、ベレンでマラリアの血液検査を受けて『NEGATIVO』(異常なし)だったので安心した。
 橋口さんはこの仕事を始めたころ、現場に出るたびにマラリアに苦しめられたそうだ。一度、感染すると、15日間は薬を服用しなければならず、完治するまで1ヵ月近くかかったという。年に5、6回感染していたというから、半年近く悪寒と高熱に苦しみ、発熱と発作を繰り返していたらしい。マラリアは体が弱って体力が落ちているときにかかりやすくなり、感染したかどうかもすぐにわからないので厄介である。

 7時過ぎに夜が明けるアマゾンの朝は遅い。川の水は茶褐色に濁っているが、10月になるときれいな水になるといい、反対に雨季になると、今よりもっと濁るという。昼間の渇いた暑さとは対照的に、朝露に濡れたアマゾンの夜明けは幻想的な気分にさせてくれる。土埃で霞んで見える昼間と違い、その透明で澄んだ空気は熱帯のジャングルの風景とは思えなかった。
 ポルトベーリョには12日間滞在した。マナウス行きの飛行機に乗り、ポルトベーリョを後にしたのは深夜だった。暗闇の町を見下ろすと、灯りが少ない小さな町だったが、私にとって記憶に残る大きな町になった。その名も知れぬ小さな町は、夢とロマンにあふれていた。窓から外を眺めていると、月の灯りがいつまでも後を追ってついてきた。
 
 
 

 別れ際、橋口さんは「お父さんによろしく」とポツリと呟いた。友人としての父への思いを託されたような気がした。ここは父が来るべきところだったのかもしれない。夢を抱いて単身ブラジルに渡ったものの、29年前、ある事情で日本を離れることができなくなった。もし、日本に帰ってくることがなければ、父はブラジルで橋口さんのように、汗と油にまみれて、今よりもっと生き生きと働いていたに違いない。夢があって、行動力があって、そして、ゴツゴツとした大きな手……。橋口さんを見ていると、まるで、父を見ているようだった。
「定年退職したらポルトベーリョに来い。一緒に仕事しよう。お父さんに伝えといてくれ」
 冗談とも本気とも言えぬ、力のこもった口調で言った。
 ここにはいったい何があるというのだろう。一攫千金の夢なんて、今の日本にあるだろうか。ポルトベーリョのガリンペイロには、夢とロマンが満ちあふれていた。

 現在、20人ほどのオーナーが一攫千金の夢を見ながら、マデイラ川で細々と砂金を集めている。日本人のオーナーは橋口さんだけである。「この仕事をやって良かった」と彼は言う。ゴールドラッシュの良き時代を知り、採れなくなった苦しい時代も知り、すべてを知り尽くしているからこそ、言い切ることができるのだ。
 そんなふうにはっきり言える日本人は今、日本にいるだろうか。私の周りにいるだろうか。毎日の生活に追われ、リストラに脅え、疲れ果てた人が巷にあふれている。夢を失い、現実に埋没されるように生きている。日本に住んでいると、とても真似のできないことである。そして、彼の生き方に羨望を覚える。
 ガリンペイロは夢を持つことの素晴らしさを現在進行形で教えてくれた。彼らにとっての壮大な夢、ゴールドラッシュは、いつの日か、再び、やってくることだろう。
 
■著者プロフィール 1968年生まれ、大阪市在住。ライター