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「あら、どうして食パンなの。ナンは出ないのかしら」雑踏のニューデリー駅を後にしてアグラへと向かうシャタブディ・エクスプレスの中で、彼女がそうこぼした。 その名も「世紀特急」というだけあって、車内サービスは満点、飛行機並だ。エアコン付き車両に革張りシート。検札が終わると、朝刊に紅茶のポット、そして、朝食が配られる。非菜食主義者用のメニューは、オムレツで、これが結構いける味なのだが、妻は、一緒についてきた食パン2枚がお気に召さないようだ。 「ねえ、聞いてる。どうしてナンじゃないの。インド料理にはつきものでしょ」 仕方がない。しばし彼女のおしゃべりに付き合うことにしよう。 そもそも、ナンは小麦粉をヨーグルトや卵、牛乳で練って、タンドール(土釜)の内側にはりつけて炭火で焼き上げた発酵パンのこと。500度にもなる高温で焼き上げるため、外はカリカリ、中はモチモチになるのが美味しさの秘訣なんだ。 |
つまり、ナンにはタンドールが不可欠ということ。そのタンドールを使った料理の代表格がタンドリーチキンだ。実はこのタンドール、今も西アジアから中央アジアにかけて広く使われているのだが、インドではペルシャ語の「モンゴル」を標榜した「ムガール」帝国の宮廷料理として発展する。したがって、庶民の食卓や南インドでは、ナンを目にすることは珍しく、鉄板で焼いた未発酵のチャパティの方が余程ポピュラーなんだ。だからインドの一般的な食事にナンが付かないって怒る方がおかしいのさ。 と、妻を非難する代わりに、僕は静かに、「ナンの話だっけ」ととぼけてみせた。ムガール帝国の王シャー・ジャハーンが、愛妻の死を悼み、22年の歳月をかけて建築したタージ・マハルを訪問する前に夫婦喧嘩はご法度なのである。 |
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