Tabit たびっと倶楽部の旅ふれあいマガジン
32号H17.3.1発刊
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第8回ハービス旅大賞 紀行エッセイ部門 最優秀賞 佐々木 晋さん 1961年生まれ、インドネシア在住。会社員

インドネシアの美しい海(イメージ)
インドネシアの美しい海(イメージ)
(C)日本アセアンセンター
 
 インドネシア・フローレス島の山奥のみすぼらしい小屋の中で、僕が食べたのは何の肉だったのだろう。せめて犬の肉であってほしい。まさか人間の肉では……。

 フローレス島に船が着いたのは夕暮れだった。港町ラブアンバジョには安宿が数軒ある。僕は一番近い宿にチェックインする。寝るだけの狭い部屋が10ほど牢獄のように並んでいる埃にまみれた宿だ。
 共用の便所兼浴室へと向かう。まずは10数時間に及んだ船旅の汗を洗い流したかった。裸電球が下がる浴室の中は腐った魚の臭いがした。浴室といっても、水を溜めた桶があるだけだ。
桶の水を浴びるのが、この国の習慣だ。
熱帯だから湯の必要はなく、水浴びこそ風土に合っている。水浴びは慣れてしまうと気持ちがいい。
 しかしそれも、きれいな水があればこその話である。ここの水桶の水は緑色に濁っている。微生物が繁殖しているのか、それともフローレス島の地下水はそもそも緑色なのか。何しろこの島には緑色の湖があるくらいだ。もっとも、赤色の湖もあるし、青色の湖もある。その3色の湖が1カ所に並んでいる。この島に僕が来た理由は、その神秘的な3色の湖を訪れることなのだ。
 体を緑色にして水浴びを終え、宿の食堂で夕食を注文する。
 「揚げ魚とキャッサバの葉しかない。それでいいか」
 目玉がぎょろりと大きい小柄な体の宿の主人は不安そうに尋ねた。なんだか森に棲むアイアイみたいだ。小心者のアイアイ。
 「それで充分です」と僕は答える。
 出てきた油だらけの揚げ魚は、ぽっかりと口を開けたナマズだった。海の近くなのに、なんでナマズなんだ。それからキャッサバの葉と青唐辛子を煮たもの。そして灰色のごはん。でもまあ緑がかってないだけましだ。
  「あんたは……インドネシア人か?」
 得体の知れない動物に遭遇したアイアイは慎重に語りかけてきた。臆病者だけど好奇心は強いのだ。
 「いいえ、日本人です」
 「ほう、日本人か。でも、あんたはインドネシア語をうまく話すね。てっきりインドネシアに住む華人だと思ったよ」
 「ジャカルタで2年働いています。だから言葉も慣れました」
 「ジャカルタに住んでいるのか」
 アイアイは疑わしそうな目で僕を見つめた。
 「ジャカルタは遠いな。そんな遠くからここへ何をしにきたんだ」
 「3色の湖を見に来ました」
 アイアイは大きな目をさらに見開いて「ふうううん」と唸った。そして「クリ・ムトゥを見るためにジャカルタから来たのか」と呟き、首を軽く振った。
 「何日か前にも湖を見に行くというアメリカ人がここに泊まった。そのアメリカ人はインドネシア語が上手く話せなくってな。地図を指さしながら、ハウハウ言っていた」
 アイアイはよく分からないという表情でまた首を振った。

「明日出発しようと考えているのですが、バスはどこから乗ればいいのですか」
 アイアイはまた大きく目を見開いた。よく驚く人だ。
 「バスなど、ここから出てない」
 「バスがない?」
 「そう、バスなど無い」
 それからアイアイは、中央政府がいかに地方を軽視しているかについて延々と文句を並べた。
 「バスが走れる舗装道路なんて地方には必要ないとでも思ってるんだろう」
 「それじゃ、どうやって3色の湖まで行けばいいのですか。さっきのアメリカ人はどうやって行ったのですか」
 「方法は1つしかない。まず、ここからルーテン村まで歩く。山を1つ越えなければならんが、1日で歩ける距離だ。そしてルーテン村から週に1回トラックが出る。市の立つ日だ。そのトラックでバジャワまで行く。そこからはバスが出ている。
 アメリカ人もそうやって行ったはずだ。たぶんな。インドネシア語が分からんから説明に困ったよ」
 山を越えて1日がかりで歩くだって? やれやれ。でもせっかくここまで苦労して来たんだ。それしか3色の湖に行く方法が無いのなら仕方ないじゃないか。それに、アメリカ人に負けるわけにはいかない。ここの言葉も満足にできないアメリカ人などに。
 「分かりました。明日の朝早くに出発します」
 「本当に、本当に行くのか?」
 アイアイは悲しそうな目で僕をじいいっと見つめている。
 「行きます」と僕は言った。
 アイアイは再び首を振って、今度は大きな溜息までついた。
 次の朝6時、僕は張り切って出発した。アイアイが「とにかくこの道をまっすぐ歩け。一本道だから迷うことはない」と見送ってくれた。
まっすぐ歩いて、山を1つ越える。それだけのことだ。日が暮れる前にはルーテン村に着ける。
 ところが、その予定は大きく狂ってしまう。必死に歩いたはずなのに、夕暮れが迫る頃、僕はまだ山道を喘ぎながら上っていた。山を越えるどころか、峠にすら達することが出来ないでいたのだ。
 峠まであとどのくらいあるのか見当もつかない。朝から歩き続けて体力は限界に近い。僕は野宿を覚悟していた。でも、こんな山の中で野宿なんて大丈夫だろうか。山犬やら毒ヘビの危険はないだろうか。どんどん不安が大きくなる。それに僕は今までテントを張ってのキャンプ以外に外で寝たことなどないのだ。
 その時、前方の林からひょいと飛び出してきた影が目に入った。それは棘だらけの甲羅を背負った2本足の生き物だった。
 薄闇の中で僕は警戒の姿勢をとりながら奇妙な生物の後ろ姿に目を凝らした。そしてようやく状況が飲み込めた。人間だ! 薪にするのか、長い枝

を大量に担いだ人間が歩いている。僕は最後の力を振り絞るように走った。
 追いついてみると、それは小柄な老人だった。身体の倍以上の薪を背負っている。
 「あの……あの……」
 息が切れて話せない。今晩泊めてくれるよう頼めばいいのだ。寝る場所なんてどこでもいい。床でいいから家の中に入れてもらえばいいのだ。
 「あの……こんばん……」
 老人は表情を崩さずに「今夜は、わしの家で休んでいきなさい」と言った。
 老人の家は山道から少しはずれた所にあった。家というよりも小屋だ。籐で編んだ壁が斜めに傾いている。ところどころネズミにかじられたのか穴が開いている。それでも家だ。薄っぺらな板を打ちつけただけの戸を開けて、僕は倒れ込むように中に入った。
 土を固めただけの土間に、木のテーブルと椅子が2つ。テーブルの上には1本の蝋燭が淡い明かりを広げていた。2メートル四方ほどの狭い部屋だ。
 老人は家の裏手に回って薪を置いてから、裏の戸を通って入ってきたようだ。部屋の隅には汚い布が天井からカーテンのように下がっていて、それが僕のいる部屋と次の間を仕切っている。その布をひょいとめくって老人が顔だけ出した。
 「今おばばがメシを作っている」
 それだけいうと老人は顔を引っ込めた。
 入れ替わりに布の下側から犬が現れた。がらがらに痩せているみすぼらしい犬だった。それに酷く臆病そうな犬だった。脅えをはっきり目に映して神経を張りつめ、犬は僕のバックパックにそろりと近づくと、クンクン臭いを嗅ぎ始めた。このガリガリに痩せた対人恐怖症の犬は、食べ物を探しているのだ。
 台所の方から低い声が響いた。軍隊の号令のような声だった。おそらく犬の名を呼んだのだろう。その声を聞くや否や犬は小走りに布の向こう側へ消えてしまった。
 
インドネシアの夕景(イメージ)
インドネシアの夕景(イメージ) (C)日本アセアンセンター

 ぼろ布1枚隔てた台所からぼそぼそとした声が聞こえてくる。老人は犬に向かって喋っているのだろうか。咳込む音も聞こえてくる。食事を用意しているというおばあさんに違いない。
 ふと籐の壁に白く小さなものが貼り付けられているのに気がついた。ちっぽけな紙が1枚だけ壁に貼られている。僕は壁に近づき目を凝らす。
 白黒の証明写真だった。蝋燭のぼんやりした明かりに浮かび上がったのは、目を大きく開いた白人の男の顔だった。
 いったい誰なのだろう。山奥の小屋に、たった1枚だけ貼られた小さな白黒写真。奥からまた咳込む音が聞こえた。地の底から不吉に響いてくるような嫌な音だ。
 僕は椅子に戻り、腰をゆっくりと下ろす。両腿の筋肉が痛い。頭も重い。喉が渇いた。身体じゅうがベタベタしている。でもシャツを着替える気も起きない。何もしたくない。僕はだらりと身体を椅子にあずけて目を閉じた。
「お待ちどう、メシができた」
 僕はビクッとして目を覚ました。椅子に座ったまま眠ってしまったようだ。
 「待たせたな。さあ食べなさい」
 黒っぽいご飯。キャッサバの葉。そして肉の煮込み。肉? こんな所で肉が食べられるなんて……。きのう泊まった宿ではナマズしかなかったのに。変だなとは思ったけど、空腹には勝てない。それに少しでも体力を回復させなければならない。肉は筋が多くて固かった。充分煮込んでいるけど、それでもかりこりと噛み砕いては飲み込む。
 「腹が空いとるのだな」老人が笑った。
 コップに入った水は蝋燭の火に照らされ、濁った様子をはっきり見せた。水というよりも白濁した液体だ。でも僕の身体はからからに乾き、水分を求めていた。どうでもいいや、死ぬことはないだろう。そう考えて僕はごくりと一口飲む。苦い味がしたようにも思えるし、あるいはキャッサバの葉の苦みが舌に残っていただけかもしれない。
 静かだ。咳込む音はもう聞こえない。老婆は寝てしまったのだろうか。

「あの写真の人は誰ですか」と僕は壁を指さしながら訊いた。
 老人は写真を振り返ることもせず、
 「きのう、ここに泊まっていった男だ」と答えた。
 「あんたと同じように山の中で途方に暮れていた。別の国の人間らしい。言葉が通じなかった」
 ラブアンバジョの宿に泊まっていたというアメリカ人に違いない。しかしアイアイは「何日か前」に泊まったと言ったはずだ。アイアイか、この老人のどちらかが勘違いをしている。
 僕は大きな欠伸をした。目を開けているのが辛くなってきた。地の底に引きずり込まれるような眠気が急に襲ってきた。
 「寝たほうがいいな」
 老人は一度奥に引っ込むと茣座を持ってきてくれた。土間に茣座を敷き、僕はそのまま倒れるように横になる。
 「疲れたのだな」
 老人は僕の横にしゃがんだ。
 「どれ、身体を揉んでやろう」
 

 老人は脚から揉み始めた。両手でふくらはぎを鷲掴みに揉み、次に腿を両手の平で挟みつけては揺する。老人とは思えない強い力だった。強張った筋肉が次第にほぐれていく。僕はなすがままに横になっている。身体が軽くなり気持ちがいい。
 「この辺りは、とても貧しい」
 老人が手を休めずに話し始めた。
 「土地が痩せていて、作物が育たない。キャッサバがかろうじて採れるだけだ。特にこの山の中は最悪だ。昔はまだ人が住んでいたが、今ではわしらだけになった」
 僕は半分眠りかけた状態で聞いている。身体がふわりふわりと浮いている感じがする。
 「昔はなあ、どうしても食べ物が無い時は、旅人を食った。まず痺れ薬を飲ませる。たいていの旅人は喉を乾かしているから少しぐらい苦い水でも飲んでしまう。それから肉のつき具合を調べる。身体を揉んでみれば分かる。特に腿だな。そうやって食べるかどうかを決める……」
 あの夜のことを今こうやって思い出しながら書いていると、それは本当に起こったことだったのか、それとも疲れて眠ってしまった僕が夢を見ていただけなのか、分からなくなってくる。いずれにしろ、僕はまだ生きている。あの次の日、朝早く目覚めた僕は、お礼を置くとそそくさと小屋を出発した。僕は歩いている間じゅうずっと、昨夜の食事の肉について考えていた。一体あの肉は……。
 ルーテン村には昼前に着いた。それまでに僕は一応の結論を出していた。あの肉は対人恐怖症の犬の肉だったのだ、と。あれほど貧しい山奥の小屋に住む老人が普段の食事に肉を食べるとは考えにくい。客のために自分の犬を潰したのだ。
 ルーテン村には僕以外に外国人はいなかった。もう30年近くそこに住んでいるというオランダ人牧師に尋ねると、この1カ月は外国人などこの村に来ていないということだった。アメリカ人はどこへ行ってしまったのだろう。
 その旅の続きを簡単に記しておく。ルーテン村で3日過ごした後、トラックに半日揺られてバジャワに着いた。バジャワは都会だった。なにしろビールが飲めた。生ぬるかったけど。バジャワからはバスが日に何本も出ていたので安心しきっていると、ある日すごい雨が降って、3色の湖に向かう道が崖崩れと橋が流されて不通だというニュースが飛び込んできた。復旧まで1カ月はかかると聞いて、僕の旅はそこまでとなった。ルーテン村同様にバジャワでもアメリカ人とは会えなかった。いろいろと探したのだけど。



■作者Profile 11961年生まれ、インドネシア在住。会社員