「楽園」 江口 葵さん (第1回ハービス旅大賞佳作受賞者) |
「Paradiso」と書かれた簡素な案内板の矢印が目についた。イタリアの国境にほど近いスイスの街ルガノで登ったサン=サルバトーレ山の頂上でのことだ。私は彼の方を小さく叩いた。「ねぇ。パラディソって楽園のことでしょ?」パラディソはルガノの隣町だが、彼はそんな散文的な回答はしなかった。私たちの初めての旅。それから何度もすることになった彼のバイクの後部座席で風を受ける旅の始まりだった。ロープウェイで山を下り、再び彼のYAMAHAにまたがってマッジョーレ湖を目指して走り出した時、私の目は再び「Paradiso」をとらえた。今度は道路標識だった。「パラディソ! ねえ、楽園はあっちなの?」彼は振り向くと言った。「君のパラダイスはここだよ」恋人と2人で行く旅には、他の旅行とは明らかに違う点がある。美しい風景や美味しい名物料理、楽しいハプニングに出合うとしても、それは決して旅のメインにはならない。私の眸はいつでも風景の中にいるひとりの人間を追っている。すると、その場所がたちまち私の楽園になる。葡萄棚のあるカフェ。宿を探してさまよった村、口論になってしまった夜。全ての旅の出来事が愛する人との思い出になっていく。
北イタリアが好きな彼は、スイス・アルプスの山麓にある彼の村に私が滞在する都度、国境を越えて連れていってくれる。YAMAHAは何度がルガノを通り、同じ道路標識の下を彼は走り抜ける。「Paradiso」の文字が目に入る度に、私は彼とともにいる楽園の幸福を噛みしめるのだ。
|
「思いがけない祝福」 佐藤 文香さん (第1回ハービス旅大賞佳作受賞者) |
2人とも行ったことのない初めての国の土を踏んでみよう。それで行き先をネパールと決めた。
空港に着くと、乾いた赤土の中からわぁーという歓声を上げて子供たちが集まってきた。インド製オースティンのタクシーが砂埃をあげて走り去るまでその子たちは、手を振って後を追ってくる。なんだかうれしい歓迎だ。
夕闇の中、外も内も木彫りの装飾でおおわれた建物のホテルに入ると、そこかしこに蝋燭の灯りが点っている。階段や廊下のぼぅっとした明るさを便りに部屋に入ると、窓辺にも赤い蝋燭が2つ並んでいる。ずいぶんしゃれた演出を私たちのために? と思っていたら、部屋の電気がつかない。停電である。カトマンズ盆地にチラチラとした灯りがひとつずつ増えていくのをしばらく眺めた。困難もまた楽し。
暗がりの中の七輪で焼いてくれたチベット料理のモモをキャンドルライトの下で頬張ってのディナーとなった。世界中でこんなロマンチックな場所があるだろうか。
ハネムーンだと知っていたならもっといい部屋を用意しておいたのに。最後の夜にくっきりとした顔立ちの美しい女主人はそう言って、小さな包みを手渡してくれた。それは手のひらに載る大きさのずっしりとしたガネーシャである。ヒンドゥーの神様の中で人気のある象頭神。知恵と富と幸福をもたらしてくれるそうだ。
思いがけないことは一番ぐっとくる。そんな祝福を受けたのが私たちの最初の旅である。 |